作り手インタビュー

杉崎学は、なぜ「生命力あふれる菜種油」をつくり始めたのか。

30代で一念発起して、菜種油づくりの現場に飛び込み、弟子として無給で学んだという「ほうろく屋」代表の杉崎学。なぜ菜種油づくりを選んだのか? そこには波乱万丈な人生によって導かれた「若者支援」という目標がありました。

PROFILE


ほうろく屋代表 杉崎学
1970年、愛知県西尾市生まれ。ヤンチャな少年時代を過ごし、25歳で起業して4年目で年商8000万円を超える。しかし多忙で疲れ果て、島根県隠岐で 数年の自給自足生活へ。周囲の笑顔が自分の生きがいだと気づき、2005年に西尾市に戻って循環型地域コミュニティづくりに邁進。2012年にほうろく屋 を創業し、今に至る。

家族のいじめ自殺から「若者の受け皿」となる朝市や農園、牧場づくり

僕の身内はいじめを受け、中2で命を絶ちました。この死を隠さず、全国のいじめ撲滅への一歩にしたいという想いから、家族会議で遺書とともにメディアに発表することにしたのです。その結果、2週間、朝夕問わず報道陣が押し寄せ、家族は疲弊しバラバラに。父親は後に全国の講演活動を通してメッセージを伝え続けましたが、僕は自問自答しました。苦しんでいる若者を具体的に救う他の手立てはないかと。そこで思いついたのが、若者の心を強くする「受け皿」をつくるこ とでした。

2005年、まず西尾市で「心の駅 和郷(なごみ)朝市」をスタート。自ら畑を開墾して野菜をつくり、吹けば飛ぶような建物で朝市を始めました。なぜ「朝市」だったのか? それは子どもも高齢者も障がい者も健常者も垣根なく、「笑顔になれる場所」をつくりたかったから。

そもそも引きこもりや心が折れやすい若者は、優しすぎるがゆえにコミュニケーションが苦手。気遣いしすぎて引きこもってしまうんですね。この「和郷朝市」には、リタイア後に野菜づくりを楽しむお年寄りが集まり、「袋詰めして」「おつり渡してね」と声をかけてくれるため、若者は自然にコミュニケーション力を学ぶことができました。さらに朝市から派生して、「農園」や動物を飼育して命の大切さを学ぶ「牧場」もつくりました。牧場には馬、ヤギ、ニワトリがいて、乗馬体験によるホースセラピーも。嫁さんには「今日買い物してきたよ。馬1頭」と言って驚かせましたが(笑)。

このように、若者が幅広い世代との交流や体験を通して心と体を強くし、世の中に戻っていける場、受け皿をつくること。壮大ですが、身内の死から学んだ一生の使命といえますね。

ほうろく菜種油 杉崎学

若者の仕事の場を求めて、近所に住む「油搾りの師匠」にでっち奉公。

朝市や農園につづいて、若者が働きに出るためのリハビリとして「9時~17時の工場勤務」を体験してほしいと考えました。飛び込んだのが、近所の「大嶽製油所」。おっつぁんと呼んで親しんでいた大嶽喜八郎が昭和24年に創業した、夫婦二人だけの小さな小さな手搾りの町工場でした。

今は大量・簡 単・安価・早くというモノづくりが主流で、サラダ油などスーパーに並ぶ油の多くは「溶媒抽出法」に切り替わっています。溶媒を使って油を効率よく抽出し、 脱色・脱臭・脱ガム・脱酸といった化学的処理を行い、“いいモノも悪いモノも抜き出した”油が大量につくられているわけです。

当然、手作業で行う手搾りの製油所は安価に押されて次々と閉鎖。僕が飛び込んだ時、喜八郎は80歳を超えていました。「過酷な油搾りをどうして続けるのか?」と尋ねたところ、「体の調子のいい時でいいからつくってくれ』と農家の衆にほだされたから、ワシはここまで続けている」と一言。「スーパーで売って いる油は食べられたもんじゃない」という周囲の声が後押しになったと言います。油搾りの名手・大嶽喜八郎が搾る菜種油の品質が伝わるエピソードです。

油は悪者なのか? まかない飯のおいしさから菜種油に開眼し、継承へ。

近年「サラダ油は体に悪い」と考えられ、油を使わないレシピ、油のいらないフライパンなどが注目を集めています。はたして、本当に油は悪者なのでしょうか?  僕は、我々に本当に必要なものは、精製なしの「良質な塩と油」だと思っています。油は食材とフライパンをくっつけないための道具ではなく、「調味料」な のです。

大嶽製油所にでっち奉公に入ったとき、奥さんが毎日まかないを出してくれました。炒め物、揚げ物、揚げ菓子など何を食べてもおいしかった! 実は調味料としての菜種油がおいしかったんですね。そこから僕は、菜種油の魅力にどんどんハマっていきました。「こんなに小さな町工場で、自然の力だけで油が搾れる。しかもおいしい」と感動した僕は、喜八郎と約束します。「おっつぁん、どれだけ時間がかかっても、僕がこの油を世の中に戻すから」 と。

僕は元々、「若者の仕事体験の場をつくる」ためにでっち奉公に入ったのですが、「昭和を支えた菜種油の復活」が大きな使命となります。 喜一郎は技を伝えてくれた後、工場の廃業を決め、貴重な機械一式を僕に譲ってくれました。後で奥さんに聞いたのですが、廃業を聞きつけた4社ほどから「機械と技術を譲ってくれ」と大金を積まれて頼まれたものの、喜一郎は首をタテに振らなかったと言います。廃業の1年後、ほっとしたのか、喜一郎はこの世を去りました。僕の心意気を認めてくれた先代喜一郎に感謝し、自分の工房には「先代とともに」という想いを込めて、写真を飾っています。

独立当初は原料がない、売れない…。次第に口コミでブレーク!

昭和前期、日本全国に菜の花の黄色のじゅうたんが広がっていました。菜の花は土壌を浄化して種にはため込まない性質があるため、米づくりの裏作に重宝されていたのです。大嶽製油所は、農家の育てた菜種を油に代える「加工」が主な仕事だったため、工場を継いだ当時の原料菜種の仕入れはわずか500~600㎏の み。商いとして軌道に乗せるには最低「20トン」が必要であり、原料を確保が急務でした。まず西尾市内の空いている畑を借りて菜の花を植え、菜の花でまちおこしを行う愛知県田原市のNPOや、全国の菜の花プロジェクトも連携。西尾市で菜の花プロジェクトも自ら起ち上げました。何とか5年目にして、愛知県産 だけで24トンという仕入れルートを確保できたのです。

苦労の末、ようやくできた菜種油でしたが、最初はなかなか売れませんでした。でも道の駅で実演販売を繰り返すうちに、「えっ!2,200円もするの?」と驚いて過ぎ去ったおばちゃんが、「おいしいね」と戻ってきてくれることも(笑)。 2015年に「飲めるぐらいおいしい」と口コミで話題になり、24トン分の菜種からつくった菜種油が半年で完売したのです。今では、自然食品店や飲食店の方々からリピーターが増え、大変感謝しています。

これまでの集大成、「心の駅 いやしろち」をつくりたい

僕は朝市や農園の運営を通して、若者の心と体を元気にする方法をひたすら考えてきました。1つの解決法として、農薬・化学肥料を使わず、微生物が豊富な土壌で育った野菜を食べること、そしてこの菜種油づくりがストンと腑に落ちました。引きこもりや少子化といった日本の課題は「食を通して解決できる!」という 使命感が生まれた瞬間と言えます。

僕が菜種油搾りを継承するときは、「なぜ今さら、生産効率の低い町工場を継ぐのか」と周囲は猛反対でし た。でも僕は宣言しました。「10年後、時代は必ず変わる。愛情や手間ひまをかけてつくった物語のある油を、受け入れてくれる時代はやって来る」と。今が その10年後。先見の明はあったと自負しています(笑)。

原点である「若者の受け皿」づくりへの想いは、今も熱く継続中です。裏山の耕作放 棄地をひとりで開墾してつくった「峠山子供農園クラブ」は、里山体験を通して、生き抜く知恵を学ぶ場に。月に1回、薪割りや味噌づくりなどのイベントを開いています。今後は、休止している朝市や牧場をはじめ、農園やレストラン、ステージなどを1カ所に集めた循環型コミュニティ「心の駅いやしろち」をつくるのが、僕の死ぬまでの目標ですね!

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